記憶にはないある灰色の野原。一人の男がいた。辺りには秋を告げる冷たさをはらんだ
風が吹き荒れている。
「…………。誰か」
 カサカサに乾いた薄い色のない唇が微かに呟いた。
「…………誰か」
 もう一度、呟いた。元は見事な銀髪であったのだろう豊かな髪は薄汚れてただの白髪に
なって風になぶられている。目の色は立ち尽くしている野原のように灰色だ。その灰色は
雪ではなく何かが描かれたように灰色の大地が広がっている。
「早く、殺して。俺を、でないと。……なあ、殺してくれ」
 誰かが中にいると感じたのだろうか。鳥瞰するように見ていた月夜に手を伸べて男は焦
燥に満ちたまなざしで月夜を見た。
「なあ、早くしないと、あいつが、あいつが、おれが」
 半狂乱になっている。いつの間にか月夜は男の目の前に立っていた。胸倉を掴まれて下
から見上げられた。
「なぜ、そこまでお前は?」
「早く、じゃないと、俺は」
 そこまで言うと男は突如に固まった。男の手先足先から石のように固まっていくにつれ
て月夜も意識が急速に遠ざかるのを感じた。
「お前は、一体誰なんだ――?」

 そこではっと覚醒した。目蓋を開くと自分の部屋の天井が見えた。すぐ脇に視線を向け
ると心配そうな夕香と呆れ顔の嵐が立っていた。
「俺……」
「俺……じゃねえよ、アホ。今日一杯はおとなしく寝ている事だな」
 そういうと嵐にすぐに部屋を出た。夕香に目で訊ねると深く溜め息をつきながら夕香は
月夜の髪を掻き分けて額に触れた。
「部屋に入ってからすぐに気絶して、あたし一人じゃ何もできないから、嵐を呼んだの。
いきなり背、伸びてんだもん。担いでベッドまでいけるかって思ったのにいけなくて。嵐
の見立てでは身体的には異常なし。精神的なショックが大きかったのだろうだって」
「……そうか」
 一つ頷いて目を伏せた。先ほどまで見ていた夢が、なぜか胸に残った。
「ちなみに言うと、三時間ぐらいは気を失ってたよ」
 温かい声に頷いて溜め息をついた月夜はベッドの中の手を動かして胸に手を当てた。静
かな鼓動だけが感じられる。
「何が、起こるんだ?」
「何がって?」
 いきなりの言葉にいぶかしげにしている夕香に月夜は首を横に振って目を横にそむけた。
「どうしたの?」
「……夢を、見たんだ。白空の言葉を気にしすぎただけなのかもしれないが、ただの夢に
しては、生々しすぎるな。どちらかというと精神感応に近い感じがしたんだ」
 内容を話して月夜は重く息をついた。夕香にいたっては顔をこわばらせたまま月夜をじ
っと見ている。
「夕香?」
 じっと見つめられたままの月夜は夕香の瞳の焦点が合っていないのに気づいて眉を寄せ
た。
「夕香? おい、蒼華」
 体を起こして夕香の肩を揺すると夕香はビクンと体をのけぞらせた。あわてて後ろ向き
に倒れそうになった夕香を支えて覗き込むと瞳に涙をたたえてどこか遠くを見やっている
夕香がいた。
「来たれ」
 かすれた声がポツリと呟いた。月夜が眉を寄せると夕香の後ろ、ちょうど机が置いてあ
る辺りから闇の円が浮かんでその中から病的に白い手が夕香の中に入って行った。
「っ!」
 とっさに片手で剣印を振ってその腕を切り裂こうとしたが逆に術が返された。胸に刺さ
る鋭い痛みに顔をゆがめながらそれでも片手で夕香を退きとめようと腕を握り締めていた。
脂汗が顎を伝う。
「月夜っ!」
 騒ぎを聞きつけたのか、ヴィジョンを見たのかあせった顔をした嵐が部屋に入ってきた。
持っていたらしい加持された短剣で夕香を掴んでいる腕を切り落とすと闇を力ずくで塞い
だ。
「夕香、おい、夕香」
 胸を差す痛みに顔をゆがめながら夕香を揺する月夜に正気というものが見て取れなかっ
た。
「……、まずいな。魂とられたな」
「あの手にか?」
「ああ」
 夕香の顔色と霊力の状態を視て嵐は頷いた。魂がなくなれば長く体は持たない。半神半
人であることを考慮しても二週間がぎりぎりだろうと付け足して眉を寄せた。
「教官に話してくる。お前は休んでろ」
「俺も」
「術、真っ向から返されてる癖に良くそんな強がりいえるな。大丈夫だ。教官ならなんか
知ってる。事情をうまく話すから今は休んでろ。……今休んでおかないといざってとき動
けなくなるかもしれないだろう?」
 その言葉には微かな叱責の色が見えた。月夜はうっと呻いて目を伏せて拳を握った。
 嵐はそれを見て溜め息をついてぐったりとして動かない夕香を背負って部屋を出た。あ
まりにも事態が急だ、と思いつつも教官に話す事柄を頭の中に整理して溜め息をついた。
「教官、いいですか? すこし、厄介ごとが」
「ならでてけ。私は今忙しい」
 予想通りの答えに溜め息をついて一声かけたのだからと心の中で言い訳をして部屋の中
に入った。
「出てけといっただろう」
「少し、こいつの事見ててもらいたいんです」
「つき、藺藤にでも任せておけばいいだろう」
「そうも行かないんですよ」
 月夜といいかけた教官に違和感を感じながらソファに夕香の空蝉をおろして教官の目に
さらした。教官は一発で見抜いたらしい。普段の夕香を知るものならば一発で見抜けるだ
ろう。血色のいい肌は今は土気色だ。
「……何にやられた?」
「正体不明。夕香の魂だけ獲ってどこかに逃げました。あと、防ごうとした月夜が術返さ
れて寝込んでます」
 柳眉を寄せた教官にどう出るかと窓の外を眺めて目を細めた。しばらくして教官は重厚
な机の引き出しから一つの石を取り出して嵐に放った。それをすんでのところで受け止め
て目を向けると強い霊力を感じた。
「水神沼へ。藺藤が気に入られているのであれば懇願して助けてもらうといい。それが代
金だと思ってくれていいと薬居が言っていたと言ってくれてかまわない」
 そういうとかけておいたらしい上着を取って嵐をおいて外に出ようとした。
「どこへ?」
「藺藤のところだ。痕跡が残っているやもしれん」
 そうですかと頷いてその背を見送って夕香を背負った。少し石の中の霊力を拝借して異
界への扉を開いて水神沼に急いだ。



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